こんにちはタヌキです
みなさま大学院生活に満足しておられるでしょうか? 今回は博士課程に入る際私が考慮したことと、今になって考慮すれば良かったと思うことについて公開したいと思います。博士課程進学を悩んでいる人、失敗したく無い人、より充実させるにはどうすればいいのか考察します。
現在の私のステータスですが、2019年初頭あたりまでに博士号取得を目指しています。アカデミアを目指す場合、ポスドクをやることになるでしょう。民間企業に行くにも良いタイミングでもあります。
そろそろ人生の分かれ道な気がするので一度振り返ることにしました。まず最初に、そもそも何がやりたくて博士過程に進学したかを書き起こしてみることにしました。
私が博士後期課程進学を目指した理由
- 研究という知的活動において一定の能力を認められる学位が欲しかった
- しんどそうな環境で自分がどこまでやれるのか知りたかった
- 30歳までに英語を話せるようになりたかった
- 何かリスクを負ってチャレンジしたかった
- 学際的なスキルを身につけたかった
- ハイレベルな研究を経験したかった
振り返って見ると、科学好きというより、それを取り巻く環境やスキルを求めていたわけです。当初思い描いていた経験は概ね達成できたと感じます。
大学院に入って優秀な同期と会うことができ、「自分はここまでは出来るけど、これ以上は無理」というボーダーも見えてきた気がします。そういった意味で、満足感もあるのは確かです。
博士課程で出来るようになった事
- 英語によるディスカッションやプレゼン
- 日・英でのライティング、論理的な文章の書き方
- プログラミングや解析のスキル
- 自分の分野の専門的な知識がついた
しかし一方で、手技や知識のような物は道具でしかありません。画材があっても書きたいものが無ければ無意味です。大切なのは道具そのものではなく、その道具で何をするかということであることに最近やっと気づきました。
漠然と研究者になりたいという考えはありましたが、もっと深く突き詰めるべきは、研究者になって何をしたいのかということです。私はそのことについてあまり深くは考えていませんでした。
しかし現在では高齢ポスドク問題や、ブラック研究室問題、アカデミアポストの熾烈な競争など、弱い動機づけでは研究者として20年30年と続かない世の中になってきているのではないでしょうか?
残念なラボ運営をしているPIや、せっかくPIになったのに死にそうな顔で歩いている若手の先生を視たりすると「自分は生き残れるだろうか?」「生き残ったとして何が残るだろうか?」という疑問やリスクが湧いてきます。
私が博士後期課程進学を目指す時点で足りなかった視点
- 博士になった後何をやりたいかあまり考えていない
- 研究者になって何を成し遂げたいのか不明確
- 自分が本当に好きな事とは何なのかよく理解していなかった
これはもしかしたら大学院生に限らず、多くの人に当てはまる問題点かもしれません。現代では「何ができるか」のようなスキルを基本にキャリア開発の焦点が当てられ、何のためにキャリアを築くのかという疑問をないがしろにしていると思います。
大学受験競争もそうではないでしょうか?テストのスコアを基にどの大学へ行けるのかを決定します、テストのスコアは大学に受かるための道具でしかありません。行きたい大学ベースで努力するべきです。そしてまた大学も道具です。本来大学の後何をしたいかを決めてから大学に行くのがベストです。
大学を出た後何をしたいのかあまり考えず過ごした学生は就職の際大いに悩みます(私もそうでした)。どんどん時間が迫ってくるので「社会人として何をするか」という大命題に短期間で答えを出さなければいけません。そんな短期間で答えが見つかるわけもないことは、新卒の3年後の離職率を見れば明らかでしょう。
もちろんどのタイミングでこのようなことを考えるのかは人それぞれです、就職後考え始めてもいいと思います。いつか考えなければいけない問題であるのは確かだと思います。
というわけで何をやりたいのかということを徹底的に考えてみた
この数か月間は自分が何をやりたいのか、なにをやれば満足できるのか徹底的に考えてみました。以下私が色々と足掻いてみた内容です。
- マーティン・セリグマンの幸せ理論を考察してみた
- 仏教における幸せの哲学をネットと本で調査してみた
- 適職診断RCAP(有料)を受けてみた
- ライフワークバランスのTED動画を見てみた
- 畑正憲の「人という動物と分かりあう」を読んでみた
- マイケルガザニガ教授の「わたしはどこにあるのか」を読んでみた
- ステファンコーヴェイの「7つの習慣」を読んでみた
- ユダヤ人大富豪の教えを読んでみた
正直これらを読んだり見たりして初めに思ったのは、「いろんな奴が色んな事言ってて良くわからん」ということです。しかし、時間をかけて迷走を繰り返すことによって、いくつか共通している哲学が見えてきて、本当にやるべきこと、成し遂げたい事を考えるにあたって考慮すべきキーワードが浮かび上がってきました。
恐怖に動機付けされていないか?
まず一つ目は自分の行動原理が恐怖をベースになっていないかということです。今~~しなければ怖い、だから~~しよう!という思考法です。例えば、今就職をしないと今後困るだろう!というような思考法です。これは日常レベルの判断ではとても有効です。例えば車でスピード出したら事故が怖いから出さないといった危険から回避する行動です。
しかしながら、「自分の目標としている事」や「自分の本当に好きな事」など人生レベルの選択でこの論理を適応すると自分の願望がわからなくなります。本来自分の願望とは、全ての不安や焦りや恐怖が取り除かれても残るものでなくてはならないと思います。
スティーブジョブスのスタンフォード大学でのスピーチに興味深い言葉があります。
「もし今日が人生最後なら、今やろうとしていることは本当にやりたいことだろうか?」
死ということと向き合うと無駄な物は消え、本当に意義のあることが浮き上がって来るというわけです。起業家などはこういった言葉を好んで使いますが、これ、本当に正しいのでしょうか?
例えば、ある晴れた日に趣味のスポーツをしています、でもそれが人生最後の日であれば、きっと大切な人に会いに行ったりするでしょう。でもそれは人生最後の日という脅迫があってやることなので、本当にその瞬間やりたかった事というわけでも無い気がします。
この例は極端すぎるかもしれませんが、人生最後という脅迫めいた側面から自分のやるべきことを見出すと、本来やりたくもないことをやらなければいけないと考えてしまう気もするのです。
繰り返しになりますが、自分のやりたい事とは全ての不安や焦りや恐怖が取り除かれても残るものでなくてはならないと思います。明日死ぬのであれば~、のように考えるのでなく、今完全に満たされていてもやりたいことは何かということではないでしょうか?
自利利他(じりりた)を忘れていないか?
自利利他とは仏教の言葉で、平たく言えば自分の利益を追求することによって他人の利益になることをせよということです。この言葉は京セラ創業者稲森和夫氏が「賢く生きるより辛抱強いバカになれ」のなかで述べている言葉でもあります。セリグマン博士の理論も、ステファンコーヴェイの「7つの習慣」の内容の一部にも自利利他と似た哲学があります。気になる方は「7つの習慣」で検索すると大量に出てきます。
私の個人的な解釈と読んだ本の内容を合わせると以下のようなことが自利です
自利
尊敬されたい
自分を表現したい
誰からも束縛されたくない
頭が良くなりたい
お金がほしい
自分の夢中になれることをしたい
高級マンションに住みたい
そして、以下のようなことが利他です
利他
友人を助けたい
親孝行したい
寄付をしたい
病気の人を治したい
誰かを喜ばせたい
子供たちに良い世の中を残したい
環境問題を解決したい
お客のためになる商品を開発する
セリグマンの理論でも、幸せの実現には、感情的喜びのある事、没頭できる事のように、自利を実現することを重視しますが、それと同時に、意味のある人生(社会奉仕など)という利他を実現することが幸福度に大きく関わると言っています。また、ユダヤ人大富豪の教えなどのビジネスの啓発本にも自分の利益と客の利益を両立することを重視せよと書いてあります。自分が没頭できることや、自分の目指したい事を突き詰めると、自動的に他人の役に立つというのが理想ではないでしょうか。
これらを踏まえて、私の当初の目的に足りなかったことは何か考えてみました。
私が博士後期課程進学を目指した理由をもう一度振り返ってみる
研究という知的活動において一定の能力を認められる学位が欲しかった 自利しんどそうな環境で自分がどこまでやれるのか知りたかった 自利
30歳までに英語を話せるようになりたかった 自利
何かリスクを負ってチャレンジしたかった 自利?
学際的なスキルを身につけたかった 自利
ハイレベルな研究を経験したかった 自利
わたしは博士課程進学の目標設定に於いて、自利に偏り過ぎたのかもしれません。私は元々医療の勉強をしてきましたが、大学院進学後は医療とはかなり距離のある基礎研究に身をおいて来ました。元々貧乏ラボに所属していたこともあり、その反動で今の比較的資金のある研究環境を選びましたが、結果として医療系の研究から完全な基礎研究へのシフトを引き起こしました。結果、極端な自利へのシフトしなっており、大きな目標を見失ってしまったのかもしれません。
いくら業績がすばらしくても、あまりにも利己的な研究者を見ると、これは自分の目指す像ではないという想いが湧きます。
一方で、私自身が自己実現を結構強く願っているのは事実です、研究を行うというのは私にとって自己表現だと思います。自分のアイディアを文章化して、自分のデザインしたFigureを盛り込んだ論文を発表し、さらに自分も成長するということにやりがいを感じます。研究が自分の内にあるものを満足させてくれるのは確かなのだろうとも思います。
利他には適切な距離が存在する
さらに満足するには、研究のゴールが世の中の役に立つものである必要があったのかもしれません。そうやって自利利他をバランスさせなければ何かがおかしいということになります。
研究というのは広義では世の中に役に立つものであると思います。しかしそれが遠い未来で役立つのか、今隣にいる人に役立つのか、日本経済に役立つのか、地球の裏側の人々に役立つのか、自分が実感できる距離感で貢献することが大切なのかもしれません。
まとめると...
まず、タイトルに掲げた博士課程進学が成功か失敗かどうかは現段階ではわかりません。明確な答えを求めていた方には申し訳ないですが。おそらく今自分の手に何が残ったかではなく、今後得た経験とスキルを使って何をするかで決まるでしょう。
そして博士課程のその後の選択は恐怖の裏返しのような消極的な選択ではなく、自分と社会の利益をバランスの取れた形を目指すべきだと考えています。
研究・博士課程をやめたい時励ましてくれた本4冊
海外ポスドク面接体験記①
海外ポスドク面接体験記②:それでも葛藤は続く
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