私が研究者をやめた理由



研究スタイルブログの管理人のひとりである、私タヌキですが、2020年をもって研究者をやめ、心機一転他業界へと転職することになりました。


「なぜ研究者をやめるのですか?」


という問いに対して、理由をいくつも上げることは難しい事ではありません。


例えば、激務だとか、将来のポストが見えてこないとか、常に競争を感じる環境、給料が低いだとか。アカデミアはもう何年も前からそういった問題を抱えているのは事実です。


しかし、別に環境が、私がアカデミアにいた8年間で変わったわけではありません。


研究者をやめるきっかけになるような事は今までの8年の間いくらでもありました。ですので、この記事ではアカデミアの不満をつらつら書き連ねるつもりはありません。


こういった人生の分岐点に立ち、決断する時、私はマイケル・ガザニカという科学者が出した「〈わたし〉はどこにあるのか」という本を思い出します。


私は彼の「意識とは解釈することである」というインタープリター(解説者)仮説がとても気に入っています。


ざっくり言えば、人間というのは無意識のうちに決めた事、起きた事に後で勝手に意味を解釈をする生き物だという事です。


これから書くことは、あくまで私という人間の無意識の決断に、もっともらしい解釈を付けた後付けの理由として捉えてください。



基礎研究を通じて成し遂げたい事を育てられなかった


まず一番の理由がコレだと思います。


「そもそも何がやりたかったんだろうか?」


この問いは、博士課程の後半とアメリカでポスドクをしている間に、時間が空けば頭に浮かんでくる問いでした。


振り返ってみると、私が研究を始めたきっかけは、神経疾患に興味を持ったことでした。当時の動機は、脳神経科学が面白そう、治療法について研究するのが楽しそうだ!というピュアなものだったと思います。


はじめは、疾患をテーマに研究をしていましたが、気づかないうちに目標が「より深く知りたい、より最先端の研究をしたい、一流の人たちと仕事がしたい」という方向へシフトして行った気がします。


そして、博士課程、ポスドクと、当初の「神経疾患」からどんどん基礎寄りの研究にシフトしていきました。


同時に、当初の疾患の治療に役立ちたいという気持ちより、自己研鑽のための研究に変わっていった気がします。


自分の心の内に気づいていたのかいないのか、競争心だけは一人前にあったので、アメリカの研究所でポスドクをするまで至りましたが、ここ数年間自分の研究テーマを見つめた時に、「これを世に出すことが、自分のやりたかった事なのだろうか?」と思うようになりました。


この研究を、例えば5~6年かけてビッグジャーナルに出して、誰かに読んでもらった時、果たして自分は満足するだろうか?自分がこれから過ごす年月と努力は果たして自分の努力の成果を届けたい人たちに届くのだろうか?


そして何より、自分日々行う研究に喜びを感じられているのだろうか?という疑問が少しずつ生まれてきていました。


きっと、同じような疑問をもっていても、突っ走ることのできる人はいると思います。


しかし、なぜか今回はどうしても「それでもまだまだいける!続けよう!」と思えなくなったのです。



アメリカのポスドクの給料では家族を養えない



アメリカのポスドクの給与水準は、国際的な基準で考えると悪くないと思います。


一方で、日本と同じようにアメリカでもポスドクの給与で家族を養うというのは困難です。アメリカでのポスドク生活では実家からの援助がないと生活ができない状態でした。


留学なんていうチャンスは滅多にないし、助けてもらってでも長くいた方が良いのでは?という意見も何度かいただきました。


もっともなアドバイスだと思います。


しかし、私はあまりそうは考えられないタイプでした。


博士課程を5年間努力して、しかも競争的な助成金をもらっても自立できない。


この厳しい現実により、「ここまで努力しても、科学が評価されても、最低限のレベルの生活すら得られないのか」という挫折感に似たようなものが常に頭の何割かを支配している気がしました。


どこに行っても、値段が気になって楽しめない。いくら節約しても、お金が無くなっていく。子供はもう幼稚園に行ってもいい歳なのに、保育料が高すぎて週に2日しか行かせてやれない。


そんな状態が1年も続いていると、さすがに何をやりたいのか?何を目指しているのかわからなくなってきます。


このままお金のやりくりに過度なストレスがかかる状態でこの先4~5年生活して、本当に仕事に集中できるのだろうか?自分なりの価値を見出せなくなってきていました。







研究者をやめることを決断した夜



自分の中の決断が確固たるものだと、自分でも理解できていました。


決断をした日の夜、妻に伝えて、実家にも報告しました。父は少し残念がっていましたが、妻は安心した様子でした。


その日の夜中、急に目が覚めました、子供は隣でいつものようにスヤスヤ寝ています。


自分にもこんな、親に守られて安心しきった顔で寝てた時があったんだろうな~、なんて考えていました。


青暗い天井を見つめていると、なぜか一番最初にお世話になった、教授の顔が浮かびました。


「そうかぁ~タヌキ君、もったいないなぁ~、せっかくそこまで登りつめたのにねぇ~」


もう既に先生のもとを巣立ってから7年は経ちますが、白髪混じりの先生の顔と声が聞こえてくるようです。


「きっと先生も聞いたら残念に思うだろうな...。」


当たり前のようにやっていた研究。やめると決心することは、頭で理解していても、心の奥では何かがうずいているのを感じます。


無理もないです、卒業研究の頃から合わせれば9年間私は研究をしてきたわけです。


幸い様々な経済支援を受けることができました。驚かれるかもしれませんが、博士課程の間に2人の子供を授かり、それでも何とか生活できていました。


そして目標にしていた海外の一流の人たちと仕事がしたい、という夢を叶えることができました。


充実しているように聞こえますが、同時に「研究を通じて成し遂げたい事」については、上手に育てることができなかったように思います。


そして何より、自分自身を最も厳しい環境に身を置いて、研究を本当に続けたいのかをテストしていたのだと思います。


答えはNOでした。


そのことに気づいてからは、時間をかけて、「研究者やめよう」という決断が無意識に形成されてたのだと思います。


それがある日、急に自分の中に湧いてきたのです。


「ああ、自分はもう研究者として終わったんだな...。」


研究所から、針葉樹の並木道を自転車で帰る時に、心の内から沸き上がった言葉でした。



研究者をやめることは、やはり少し寂しい



私は、純粋に研究者をやめることは寂しいと思います。少しの敗北感があることも確かです。


まず、人との別れが寂しくあります、研究チームのメンバーとの別れ、今まで苦難を共にしてきた人と、違う道を歩むことへの寂しさ。


そういったものは、当然ながらあります。


ブラックなラボで周囲が大嫌いになってから辞めるわけではありませんから。自分でも、変な奴だな、と思います。


また、過去の自分へ別れを告げる寂しさです。今まで過ごしてきた研究者としての時間、自ら心血を注いで来た研究との別れ。


今までは「自分は、周りと比べて、少ししか業績がないなぁ」と思っていたのに、


いざ、研究者をやめるとなった今、履歴書をまとめている時に、自分の今までの論文のタイトルを見ていると、「あぁ...中々良い研究をして来たな...。」と思うので不思議です。笑

住んでいた近くのグライダーポート、いつも夕焼けがきれいでした



それでも何か違うことを始めたくなった!



センチメンタルなことばかり書き連ねていると心配されるかもしれませんが、研究者をやめるという決断は、同時に次に挑戦する事を選ぶことができるという前向きな面もあります。


研究者をやめるという決断をした翌日の朝は、空気が軽く感じました。


常に心の奥にあった、「いつかは任期無しのポジションを見つけなきゃ」とか「このポスドクでCNSかその姉妹紙に出さなければいけない」といったプレッシャーから解放され、今まで感じたことのない肩の力の抜ける感覚がありました。


「もう研究一点張りのキャリアに人生かけなくてもいいのか」と自由になった気がしたのも事実でした。


「研究者をやめる」ということだけに集約するとネガティブですが、博士号を持っている人でも企業で活躍している人は沢山います。


研究者として成功するという目標へ向かって走ることも人生ですが、その道から一度視野を広げれば、全く違う人生が待っていると、私は今感じています。


2020/12/4追記 「アカリク アドベントカレンダー」に参加しました。 adventar.org/calendars/5534


関連記事




3 件のコメント :

  1. 通りすがりのものです。海外留学の給付金まとめを読んだあとに、ふと目についたこちらの記事を読ませていただきました。研究を通じて何を成し遂げたいのか、とても大事な問いをいただきました。ありがとうございます。
     私は学部と大学院のあと同じテーマ・同じ研究室で2年ポスドクとして所属し、8年続けた研究に見切りをつけ、現職にきました。現職は研究も行いますが、検査も担当するポジションです。大学のように研究に全振りすることはできませんが(大学も全振りできるか今や怪しいですが…)、安定はしています。前の研究室で疲れ切った後に、選んだ職場でした。この記事を読んでいて、以前にたぬき様と同じ感情や気持ちに浸ったことを思い出し、思わずこのようにコメントを書きました。私の場合はそこまで区切りをつけられず、自分にとって研究とは何かまあ悩んでみよう、考え続けてみようと思い、今の職についています。

     私が言うのも変だとは思いますが、大変お疲れ様でした。今後も企業等でご活躍されることと思います。新たな環境や生活で新しい発見も多くなりますね。
    今後もこちらのブログ、楽しみにさせていただきます。

    返信削除
    返信
    1. コメントありがとうございます。この記事は多くの方に反響をいただきました。研究が好きだけど、今のシステムでは研究を続けることが出来ないと判断する人は決して少なくないのだと感じています。生き残った人のストーリーは語り継がれますが、去った人の物語は語られないものです。そんな中で少し勇気を出して書いたこの記録に共感していただけたのはうれしい限りです。

      Unaさんもこれから研究との付き合い方について色々と考えられるのだと思いますが、お互い何か腹落ちする答えや次の目標を見つけられるといいですね。

      今は環境が変わっている真っ最中で、中々記事の更新が出来ていませんが、今後ともブログをよろしくおねがいします。

      削除

  2. 古い記事ではありますが失礼いたします。
     私は紆余曲折あり、去年の春に卒業後、2年任期の特定の助教ポストに着任し1年が経ちかけています。非常に良い先生に恵まれ、ジャーナルに1本投稿できたものの、将来私が何をしたいのかが全く分からないという状況です。学振の提出が近いのに何をしているんだ…、私は研究になりたかった訳じゃなかったのかな…と思っている最中にこちらの記事に巡り逢いました。記事にはすごく共感しました。記事のお陰でもう一度自分自身を振り返る時間が設けられました。
     私自身を振り返ってみると、学部3年時に博士号を取るという目標を打ち立てておりましたが、その目標の理由が”博士号は出来る人が持つパスである”だったのではとぼんやり思い出しました(今現在の自分に至るまでにその理由は改変されていましたが…)。出来る人のパスを持った上で、出来る人の集まるアメリカの大学で自己を研鑽したい、とその時は強く考えていました。
     修士・博士時代の研究は遂行性に問題点があるものを渡されてしまいました。シミュレーションで示した結果を確かめる実験装置自体が10年以上も動いていない、そして今も動いていないし、その当時にそのテーマに対しての私の拒否は認められなかったです。博士課程の1年終盤になり、いよいよ不味いと教授は感知したのか、大学外部で懇意にしている若手研究者の全く異なる研究テーマに共同研究という形で私を入れました。その方のお陰で(超最低限の)卒業要件であるジャーナル1本投稿は達成できました。但し、出来上がった博士論文はキメラのような出来栄えでした。
     こういった鬼畜な道を歩めたのはその研究が好きだからとかではなく、そもそも何かを達成するための手段である”自己研鑽”を目的にしていたからでは?と最近気付き始めました。私が”研究において何かを成し遂げたい”という気持ちはそこには無く、今の私にはこれから先に続く研究の道も見えておりません。
     私の雇用はプロジェクト雇用で、プロジェクトの仕事はあまりストレス無く進められていますが、正直PIとして今後やっていけるようには全く思えていないです。今の研究室の先生はPIを育てることに熱心で、現状私がもがき苦しんでいることをよく理解し、話を持っていけばニコニコしながら知恵を授けてくださいます。しかしながら、私は何をしたいんだ?、これから何が出来るんだ?が全く見えていないです。
     タヌキさんみたいに今やっていることに見切りをつけれるかはよく分かりませんが、タヌキさんのように本当の意味で目標となるものを見つけたいです。
    長文失礼致しました。

    返信削除

カテゴリー